まぶたの病気、眼瞼下垂の患者と家族を支援している おーばです。
今回は、最近わたしが出会ったいくつかのことがらと それを通して考えた
他人とのかかわり方について 書いてみようと思います。
わたしは、「偏見や差別のない世の中であってほしい」と思います。
自分が差別の対象になったとしたら、こんなに悲しいことはありません。
自分は決して差別をする人間にはならないぞ、と思います。
そして、私と同じように思っている人は 多いことでしょう。
それでも、差別に遭い 哀しい思いをする人は居なくなりません。なぜなのでしょう。
この命題に対する 一つの考えがあります。
ひとりひとりに、自分の常識、自分の世界があって、その中で生きている。
自分の常識の外で生きている人にたいしては「非常識」だと感じ、
それを排除しようとするのが「正義」である。
一番わかりやすいのは他国との関係。
宗教の違いや、過去の歴史認識が
互いの理解を邪魔しています。
熾烈な販売競争をしているお店どうしは
相手の店が繰り出す秘策を「なんて卑怯な手をつかうんだ」と怒ります。
自分の立場だけを中心に物事を考えていると
見えなくなってしまうものは たくさんあるような気がします。
連休中に、日帰り温泉に行きました。
大浴場には老いも若きも 大勢のお客がおりました。
その中に、肩から背中にかけておおきな赤アザをもつ若い女性がいました。
その特徴はとても目だち、注目もされましたが
女性は気にするそぶりも見せずに入浴を楽しみました。
そこへ やや年配の婦人が歩み寄り
「小さい子がびっくりしているじゃない。すぐに出て行ってちょうだい
あなたはなんて非常識な人なの?」
とその女性に言いました。
・・・実は、この話は実際にあったはなしではありません。
いくつかの話を合わせた 創作なのですが、
これと似たような話は ごく最近にも あちこちにあるんです。
若い女性に「非常識」と言ったご婦人を
あなたこそが非常識だと糾弾することは簡単だけど。
このご婦人は自分の世界の「常識」にのっとって、
「正義」のために忠告したのです。
自分は差別しているとは夢にも思っていないし、
「わたしはみんなのためにいいことを言った」と思っているのかもしれません。
常識をくつがえすことって、大変です。40年生きてきたとすれば40年分の認識をひっくり返さないといけません。それって、よほどのことです。
と、エラそうに書いている私(大場)の持っている「常識」だって、怪しいものだな
と感じます。
でも、解決のために、もう少し簡単にできそうなことがあります。
「相手の立場に立って、考えてみなさい」ということです。
小さい子おもちゃの取り合いをしたとき、大人がよくいう言葉です。
この世の中 主義や主張はさまざまあって
それをまとめることなんて、ほぼムリです。
むしろ、単一の考えしかない世の中は、恐ろしい。
自分と他人との違いを知ったうえで、互いの立場を思い、
なんとか折り合いをつけて 生きてゆけたらいいですね。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
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2013年05月15日
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