まぶたの病気 眼瞼下垂の患者と家族を支援する おーばです。
今回は「先天性眼瞼下垂のおはなし」というカテゴリから
「完治」という言葉について、書いてみようと思います。
今回の話は眼瞼下垂に限ったことではなく
他の疾患についても おんなじことが言えますので
たくさんの人に読んでいただきたいと思っております。
昨日、私は私の二男の話をブログにアップしました。
何人かの方から、さっそく激励のことばをいただいたのですが
「完治」するといいね という言葉には
正直、複雑な思いがいたしました。
もちろん、書いてくれた人は本当にそう思ってくださったのがわかるので、
本当にありがたいことだと思っています。
すべての人にとって、健康は宝です。
だから
病気は、治すもの。病気は、治るもの。完治を目指す。
一般的には もちろんそうだと思います。
でも「完治」するということが、実はとっても難しいことだとしたら。
たとえば、生活習慣病と呼ばれる、糖尿病や高血圧の患者は多いのですが、
みなさんすでに完治はできないひと達なのです。
一生薬を使い続け、食事に注意していても 治るものではないからです。
まあ 慢性化した病気を持っていても、
あるいは加齢に伴い身体的な機能が低下しているとしても
その状態を受け入れて、管理しながら楽しく生きている人はたくさんいることを、私たちは知っています。
さて、
先天性の疾患の場合は、身体に機能低下や変性・欠損した状態でこの世に生まれてきています。手術や治療で改善するものもあるのですが どうしても補いきれない部分もあるのです。
先天性眼瞼下垂で言いますと、
正面から見たときの、目の大きさの左右差を整えることは可能なのですが
反面、まぶたの閉じにくさが今までよりも強くなるということはあります。
夜眠っていても 薄目を開いたような状態になるし、
角膜が乾燥しやすくなるというデメリットもあります。
眼瞼下垂以外にも
いろいろな「先天的な問題」をもって生まれてくる命があります。
それらもまた、補うための手術・改善させるための手術はありますが
いずれも、完治させるというレベルのものは少ないのが現状です。
でも、じゃあ完治できなかった人たちはダメな人たちなのか?というと
断じてそんなことはありません!
と、声を大にして言いたいわけです。
慢性疾患のひとも お年寄りのひとも 障害をもっているかたも
その状態をうけいれ その状態でイキイキと生活をすることは可能ですし
それは全然特別なことではない、と私は思うのです。
ただ、わたしがこんな風に思えるようになったのも、長年患者支援の活動をやってきたからこそだろうと思います。
今のように思えるようになるまでには、ずいぶん葛藤もしました。
わが子が生まれてくるときは、五体満足であってほしいと願っていましたし
まぶたの病気がわかったときは
この先この子にきっと不憫な思いをさせるのだろうと思ったら
ものすごく悲しかったし苦しかったし。
それこそ「この子を完治させるまでは、私の責任なんだわ!」なんて
悲愴なまでの決意をしていたわけで。
あまつさえ、私を頼ってきてくれた仲間に対しても「完治を目指して一緒に頑張ろう」とか言ってしまうくらいに無知でした。
そんな 過去の私に言ってあげたいのです。
完治させたい気持ちはとってもよくわかる。
完治したらいいなっていう願いも わかる。
ただし、それが叶わなくても 嘆く必要は、ない。
それから、
完治なんてことばは だれにでもに使える言葉じゃないから
かんたんに言うものじゃないよって。
今現在の 自分の役割(患者支援者)として 思っていることは
そうはいっても
かつてのわたし自身のように、なかなか現状を受け入れがたいという人は必ずいるから
これからも そんな人たちの良き相談相手でありつづけたいということです。
今日もおよみいただき ありがとうございます。
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私は右目が先天性眼瞼下垂の20代女性です。眼瞼下垂についてネットで調べていて、こちらの記事を見つけ、すごく気持ちがすーっとしましたのでコメントさせて頂きました。
私は22歳で初めて手術をしました。それまでもずーっと手術をしたいと思っていましたが、母はあまり手術に好意的ではなく、中学生の時に診てもらった先生から「これから顔はどんどん変化しますよ」と言われ、母に大人になるまで待とうと説得されました。
それから数年後に初めて手術を受けました。恥ずかしながら、それまでほとんど無知だった私は手術をすれば完治するんだ!!皆と同じ普通の目を手に入れられるんだと思っていました。でも現実はそうじゃなかった。手術をして一見両目とも同じ大きさに見えますが、やはり、瞼も含めた目の動きは普通とは程遠いもので、瞼をつり上げたことで瞬きの動きはより一層覚束ない感じです。
手術をしたことに後悔はありません。むしろ良かったと思っています。前よりも写真に写る自分が好きになりました。しかし、瞬きが一層浅くなり乾きやすいため目の充血は頻繁で夜も乾き防止の軟膏が手離せなくなりました。自分の目指していた普通の目=完治はしないと否応なしに突き付けられ理解しました。皆と同じ普通を手にしたいだけなのに、それが永久に来ないこと受け入れなければならない現実です。
世の中には、私とは比べ物にならないくらい大きな障害や病気と直面し、悩み苦しみ、それでもなお一生懸命生きている人達や支えておられる人達が大勢いらっしゃることは理解しています。五体満足で産まれてきたことを「有り難いこと」と思わなければならないんだと知っています。だからこそ親を恨んだりはしないし、私を産んでくれてありがとうて思っています。
私にとって完治は奇跡です。普通を手にするという奇跡。それは永遠に来ない奇跡。だけど、願わずにはいられない、その奇跡が起きる日をそこにいる自分を。
絶望の一途を辿ることになる願いです。しかしそれでも願わずにはいられません。この目と共に生きる以上願わずにはいられません。20歳を越えてもまだ眼瞼下垂を本当の意味で受け入れられていない哀れな私の願いです。
出来るなら、おーばサンのように眼瞼下垂に悩む人を支える側の皆さんには、大切な方が絶望に直面した時、一緒に考えよう、乗り越えようと励まして頂きたいです!!それを繰り返すことで少しづつ現実を受け入れ、前に進めるはずです!!
私自身もそうしてこの運命を受け入れていきたいと思っています。
病気に対する受け止めは、10人いれば10人とも違う。
この記事を書いたとき
がっかりする人はいたと思うし
私に対して、怒りの気持ちを持った人もいたと思う。
だから
気持ちがすーっとした、と書いていただけて、
正直、ホッとしています。
「手術をしたのに普通にならない」
この事実を受け止めるのには 親の私でさえ時間がかかりました。わかってもなお
「どこかに、普通の目を取り戻す方法があるのではないか」と思わずにいられない気持ちも。
Mさんが、この「ままならない現実」と向き合おうとしていることを嬉しいというか、頼もしく感じています。
これからも、「眼瞼下垂の広場」に来ていただけますよう
よろしくお願いいたします。