今回のお話「醜形恐怖」は眼瞼下垂のかた全員に関係する話ではありませんが、ぜひ 多くのかたに一度は目を通していただきたいと思うお話です。
そんな現状もあるのだなーと 思ってお読み下さい。
そもそも「醜形恐怖」ってなんでしょう。
わかりやすく言うなら「自分がとても醜いという思い込み」の症状です。
拒食症の人が、周囲の人からは 見るからに痩せ過ぎなのに「私は太っていて醜い、もっと痩せなくちゃ」と思い込むのと同じです。
他人にはなかなか理解できない 本人にとっても大変辛い状態です。
専門的には「認知の歪み」とか 言ったりします。
醜形恐怖は何故起きるのでしょうか―。
これはひとの心の中の問題ですので、そう簡単に導き出すことは難しいのですが、
自分の中の「こうありたい自分」と「鏡に映し出される自分」の顔が
結果的にかけ離れてしまっているのが問題だと言えます。
まず手術前ですが、眼瞼下垂の患者さんの場合、実際に瞼の上がりが悪いので
この時点では醜形恐怖とは呼ぶことはありません。
手術をする前の瞼が下がっている状態は、患者さんにとって「これは本当の私ではない」と思う姿です。瞼が開いてさえいれば、自分のもつ劣等感も、他人からの冷たい視線からも逃れられると思うものです。
ここから 道は分かれます
まずは自分の劣等感と、なんとか折り合いをつけて、「これが私だ」と自認できるようになるか、ならないか。ありのままの自分を認めることができたなら、その人は人としての強さを持ったことになると、私は思います。
劣等感から逃れる手段として手術を選択するのは、とるべき選択肢の一つです。成功することによって自信をつけて、新しい自分を「これが私だ」と思うことが出来たなら、それも、良かったね。といってあげることができます。
同じような状況下で手術をして、医師の評価としてまあまあ良い出来だったとします・・・
周囲の人は「手術で瞼が開くようになってよかったね」とその効果を認めても、
「そうだね、手術してよかった」と思う人がいる一方、
「でも、瞼の形がちょっと左右で違うでしょ、それに・・・」と 不満を言い続ける人もいます。
この気持ちが強くなってくると
「手術は失敗だった」「自分は手術のせいでもっと醜くなった」「こんどこそきちんとした自分を手に入れたい」と 思うようになる人もいて
―すなわち、これが醜形恐怖が生まれる瞬間です。
実は、この「醜形恐怖」は、眼瞼下垂の手術を行った“手術後”の人にも起こりやすいと 私は思っています。
自分の心が そう思い込んでいるのですから何度手術をしてもなかなか満足がいきません。
形成外科医からは「ポリサージャリー」と呼ばれ、
「やっかいな患者さん」という烙印を押されてしまうことが、往々にしてあり、
心療内科、メンタルヘルス科の診療を勧められるケースも多いのです。
さて、
こういった 気持ちの「差」はどこからくるのでしょう。
つづく