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2012年12月05日

「普通」についてあれこれ考える。

まぶたの病気、眼瞼下垂の患者・家族を支援している、おーばです。

今回は、先日私も参加した「ヒューマンライブラリー」
論じられたテーマ「普通ってなんだろう」について考えてみます。

そもそも、普通っていうことばや「普通」であることって
私たちは、全然意識しないで日常を過ごします。

3・11以来「普通の生活のありがたさがわかった」というのも聞きますが
そういう観点からすると、当たり前だと思っていることとか
「災害・被害・病気・障害のない状態」っていうのが 普通ということになるでしょうか。

では、(先天性眼瞼下垂もそうですが)生まれながらに病気や障害がある場合はどうなんだろう。
生まれたときからの状態っていうのが、その人にとっての「普通」であることも、真実なんですよね。
物心つく前に手術を経験していれば、その手術を経ている「今の顔」が普通なのです。

眼瞼下垂は、たとえば手術をすることによって見た目を改善させることは可能です。それは「普通の状態」に持っていくための措置です。手術をしてしまえば、それと知らない人にとっては病気だと思われることもほとんどない のかもしれません。
それでも、まばたきに若干の違和感があったり、閉眼しにくくなったりということもあるので、眼瞼下垂の患者さんの多くは、「普通になりきれない自分」と向き合い続けているのです。

一方、手術をしない状態では、まぶたの左右差は、事情を知らない人にとっては「目立つ」ものです。たぶん動物の習性としても「周囲とは違うもの」に意識が向いてしまうのは、避けられないことだと思います。だから、これはある意味変えようのないことだろうと思います。
幼稚園児や、小学校低学年くらいまでのお子さんにとってはそれは「不思議」「好奇心」の対象になるし、あからさまに顔を覗き込んだり、わざわざ本人や家族にきいたり「へんなの!」とハッキリ言われてしまったりするわけで。
当事者として、家族として。わかっていても、言われればショックを受けるのが「普通」だったりします。

社会性が育っていけば、相手に対する礼儀や思いやりというのがわかるので、むやみに他人が嫌がることは言わなくなってきます。まあ、個人差があるので、大人になってもイヤなことを言ってくる人って、まわりに1人くらいいたりするのも「普通」なのですが。
「世の中にはいろんな人がいる」ってことを学んで、ひとりひとりの中に「普通」の基準というのが醸成されてくるものなのだろうなあって思います。

家族に患者がいるわたしが個人的に感じるのは
「眼瞼下垂」というのはその人のほんの一部分でしかなくて、ある一面だけを見て「普通ではない」というレッテルを貼る必要は、まったくないってこと。恥じたり隠れたりすることはないし
それこそ、「普通」に生きてほしいし、生きられる。

先天性にしても後天性にしても ちゃんと自分と向き合うからこそ葛藤もする。そして、いまの自分を受け入れようとすることや、「改善したい」と思うことを、成長とか成熟と呼ぶのだと思います。(本人が意識していなかったとしても)

長くなっちゃいましたけど、もう一つ。
この活動に本格的に取り組むようになって、「自己肯定感」ってとっても大切だなって思うようになりました。そして自己肯定感を育むには周りの人からたいせつにされることが必要なのだとも。愛されて育つということは、その人にとっての一生の宝になります。
「普通」の形はひとそれぞれなのだろうけれど、たいせつに育むと きれいなかたちの「普通」が育ってくれるように感じるのです。

今日も、お読みいただきありがとうございます。

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posted by 大場 美津子 at 05:56 | Comment(0) | 見た目の問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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